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弁護士コラム

弁護士1日日記 平成26年9月度

杉原千畝と小辻節三
 4月以来、近代日本史を集中して読んでいるが、たまたま、高校の同窓会で「杉原千畝」に関するレポートをする役割を与えられ、研究することとなった。
 杉原千畝は1940年(昭和15年)7月19日、ドイツ・ナチス軍に追われてポーランドから隣国リトアニアに逃れてきたユダヤ人6000名に政府の反対を押し切って日本行きのビザを発給し続けた領事代理として歴史に名を残している。
 彼は私の通っていた名古屋の高校の先輩であったこともあり、かねてから「命のビザ」物語は承知していたが、事件の詳しい事は知らずにいた。
 とりわけ、千畝が発行したビザを持ってリトアニアから出たユダヤ人たちはその後どうしたのかについては全く知らなかった。
 千畝の発行したビザは日本国に対する通過ビザ(滞在可能期間は10日間ほどだった)であるが、それを持ってどのように日本に向かったのか、日本についてからユダヤ人はどこへ行ったのか、その際の入国ビザはどのようにして入手したのか、本当に命を救う事になったのか等、疑問がいっぱいあった。
 そこで、調査のために本屋に出向いた所、たまたま昨年4月25日に出版された「命のビザを繋いだ男」という本を見つけた。(山田純大著:NHK出版)
 そこには、「命のビザ」を以って福井県敦賀港にたどり着いたユダヤ人が神戸のユダヤ人コミュニティに向かい、そこでユダヤ教・ヘブライ語の研究家であった「小辻節三」に救済を求めた実話が掲載されていた。
 杉原千畝がユダヤ人の送り込みを担当した人物であるとするならば、そのユダヤ人を迎え入れ、これを繋いで最終目的地に送り出した日本人がいたのだ。
 この6000人に昇るユダヤ人送り出し物語は日本の開戦(1961年(昭和16年)12月8日)までに終了していたとのことであるが、日独伊三国同盟の時代であり、容易な事ではなかったと推測される。
 どのような時代・境遇にあっても正しいと信じた事をやり抜いた日本人がいた事を誇りに思う。研究を進め、続編の報告をしたい。
 ちなみに脱出したユダヤ人の多くが1948年(昭和23年)5月15日に建国された「イスラエル」に入り、重要な役割を担っている。
   平成26年9月1日    
                           弁護士 加 藤 謙 一

(2014-09-02)