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弁護士コラム

弁護士1日日記 平成26年10月度

外相・松岡洋右論
 9月1日の弁護士日記で「杉原千畝と小辻節三」を書いた。今回はその続編である。この二人の物語の背景に出てくる重要人物がいる。外相・松岡洋右である。
 杉原千畝がリトアニアで6000名を越えるユダヤ人難民と出会って困惑している最中(ユダヤ人難民が初めてリトアニア領事館に押し寄せたのは1940.7.18のこととされている)、1940年7月22日に第2次近衛内閣の外相に就任したのが松岡洋右である。(松岡洋右は、1933年2月24日の国際連盟脱退時の日本の全権大使であり無原稿演説「十字架上の日本」を英語で行うなどし、国民的英雄視されていた。)松岡洋右は「満蒙こそ日本の生命線」という言葉を残し、満鉄とかかわっている。杉原千畝・小辻節三もともに満州に渡り、やはり満鉄と係っている。とりわけ小辻節三は、ヘブライ語が出来るという事で松岡洋右の指名で満鉄に呼ばれたという経緯すらある。(松岡洋右はユダヤ人問題に関心を持っていた。)
 その松岡洋右は就任した翌日1940年7月23日に各国大使に対しビザ発給原則を示し、難民扱いに注意を促している。これは、同年9.27に締結される「日独伊三国同盟」と絡み、当時の日本とドイツの緊張度を示している。
 松岡洋右は、三国同盟に続き1941年4月13日「日ソ中立条約」を締結し、日本が南方進出するのに後顧の憂いなきを期した。
 13歳から10年ほどアメリカで学び、アメリカと言う国を誰よりも承知していた松岡洋右が、外相として日独伊三国同盟・日ソ中立条約締結の指導的役割を担い、結果として日米開戦の道を付けた因縁を思わざるを得ない。
 松岡洋右のこうした役割を重んじた連合国により、戦後、A級戦犯として極東軍事裁判の被告とされた。もっとも、昭和21年6月27日、判決を待たず病死している。
 大きな歴史の流れの中で松岡洋右という人物をどう捕らえるのかは学者に任せ、英語力抜群であった松岡洋右、ロシア語の達人であった杉原千畝、ヘブライ語の達人であった小辻節三の語学力が時代を動かす原動力となった事に感銘を覚える。
 戦後70年と言う明年を意識しさらに読書を進めレポートを続けたい。                   平成26年10月1日
                                    弁護士 加藤 謙一

(2014-10-02)